透明でくにゃくにゃしたブログ

存在しない同人サークル

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||と、その他の感想(ネタバレがあります)

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久しぶりの更新はこの挨拶で始めましょうか。

献杯

葬式なので酒を飲みます。なんで葬式のあとって酒飲むんですかね?

 

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を観に行ってきました。ネタバレもあると思うんで、そのへんは各自自己責任でお願いします。関係ないことも書くかもしれません。もう酒飲んでるのでこの先どうなるのか自分でもわからない。

観たのはTOHOシネマズ立川立飛の轟音上映回です。シネマシティが全部埋まっていたのもありますが、昨年9月という史上最悪な時期にオープンした映画館なので、応援の意味も込めて初めて行ってきました。飲料がドリンクバーとは知らなかった。結局ホットコーヒー一杯しか飲まなかったのでえらい高くつきましたが。チュロスかポップコーンも頼みたかったけど時間が本当にギリギリで、なおかつめちゃめちゃ売店が混んでいたので諦めた。緊急事態宣言ってなんだっけ、みたいな人手でした。東京都民もまだまだ捨てたものではない。

結果的に食べ物は頼まなくて正解でした。上映中、スナックをつまんでいる隙など微塵もなかった。すべてのシークエンスが、すべてのカットが今後永久に伝説となるのだ。視線を外すどころか、つけているマスクで若干視界が狭くなることすら疎ましく感じる。

 

私はエヴァの良いファンではない。入り口はTV版も旧劇もとっくに終わっていた大学時代、悪い友人に連れて行かれたパチスロ屋で5号機のエヴァを打ったこと。1000円札を投入するたびに青髪ショートカットの女に「そうやって、嫌なことから逃げているのね」と言われ続け、そういうお前は誰なんだよということで、今はなきAnitube(ないよね?)で動画を探し、TV版及び旧劇を全部違法視聴した。きっかけは最悪だったが、私がオタクになったのは間違いなくこの体験によってだった。演出の素晴らしさについてはいまさら語る必要もない。その後、わりとすぐ新劇場版の公開が始まった。そこから今日までが長かったわけですが……。新劇はすべて劇場で観た。TV版及び旧劇に触れてそれほど間もなかったこともあり、序にはあまりノれなかった。破は純粋にエンターテインメントとして非常に楽しめた。Qは……Qは、いろんな人が言っているがラストシーン以外はどうしようもねえな、というのが当時(いつだっけ?)の感想だった。オタクの予想全部外してみました、という意図でのみ作られたとしか思えず、ヴィレとかヴンダーとかの存在をどうしても受け入れることができなかった。今日までは。

 

ようやくシン・エヴァの話ができるわけですが、はっきり言って今日の時点ではうまくまとまらない(じゃあなんでブログ書き始めたんだ)。うまくまとめるのは他の人に任せます。

ここまで読んでいる人は当然全員視聴済みという前提で話を進めます。一言で言えば、あれは葬式じゃないですか。紛れもなく、葬式だったんです。エヴァンゲリオンというコンテンツと、そのキャラクターたちのTHE END OF EVANGELIONでは終わらせることができなかったエヴァンゲリオンを、相応の覚悟をもって、殺してやった、ということなんだと思います。

アニメ業界のことはよく知りませんが、カラーという株式会社はほぼ、エヴァのIPで食っているということは想像に難くない。これまで数多くの、本当に数多くのパチンコやスロットに版権を売り、コンビニとのしょうもないコラボを乱発し、言ってしまえば自らのコンテンツをめちゃめちゃ安く売りまくっていた。アニメビジネスというのは総じてそういうものなのかもしれませんが、20年あまりにわたって自分の子であるキャラクターに売春させていたようなものです。キャラクターは歳をとらず、いつまでも若く美しい。これほど使いでのいい娼婦(あるいは娼年)はいない。

そういう罪を、株式会社カラーは当然のことながら批判を覚悟でやってきたわけです。エヴァ狂いの友人は「それ(パチンコになったりすること)すらエヴァだ」と宣っていた。果てしなく安売りし、現実空間に中身のないキャラクターが氾濫すること、それ自体がエヴァなのだと。私はそこまで良いファンではないので「そ、そっか……」と若干引きつつエヴァパチスロで数えるのも億劫なほどの万札を溶かした。Q公開から今日までの8年だか9年だかという年月は、簡単に言ってしまえばそういうものだった。その悪夢のような楽園のような日々が今日、ようやく終わったのだ。献杯……。

 

映画の前半ではニアサード後の人々の営みを見せ、後半はTHE END OF EVANGELIONを自ら元ネタに、その対比を、20年という年月によって変わったものを見せてくれた。テーマは旧劇と同様、神殺し、そして親殺しであり、それは変わらないが、何より見せ方が変わった。旧劇ではおそらく神である己を殺すこと(つまり自殺だ)に終始していたのだが、シン・エヴァンゲリオンでは、もはや己の手を離れ、制御不能となった神(エヴァンゲリオンというコンテンツそのもの)を殺してみせた。本当に殺せたかどうかはいまの時点では不明。それは後の歴史が、そしてアニメスタジオ・カラー自身が証明していくことになるだろう。たしか劇中、マリがこんなことを言う。「子どもが親にしてやれるのは、肩たたきか、殺してやることぐらい」。旧エヴァには存在せず、終始ルールの外にいた真希波・マリ・イラストリアスという女性だからこそ言えた台詞なのかもしれない。エヴァンゲリオンという作品は、庵野秀明にとって子であり、もはや親でもあったのかもしれない。一番の要点は、今回は自殺ではないということだと思います。これまで散々売春に使ってきた少年少女たちを、贖罪として殺してやり、安らかに眠らせてやる。その手法として使われたのが、私としては非常に言葉に困るのだが、いわゆる"NTR"だった。

新劇場版のアスカ、いわゆる式波・アスカ・ラングレーという少女もまた、アヤナミ初期ロットと同じくコピーされた存在であるということが今回、明らかになるわけですが(オリジナルが惣流ということなの? いや、惣流もたしか試験管ベビーなんですが……)、少女の大量コピーというのはこれまでカラーがやってきたエヴァ商法そのものであり寓意的ではあります。そして、アヤナミ初期ロットが固有の人格をもつようになるように、コピーであるアスカもまた、一人の男性と、シンジではない男と明確に肉体関係をもっている。

私はNTRが好きなんですが決してNTRが得意というわけではなく、これは相当にショッキングなことでした。ですが、だからこそ、この"NTR"を利用したキャラクターの解放という手法には舌を巻くしかありませんでした。そして同時に、この感覚には覚えがある、とも感じました。

 

これ、新海誠じゃん。

 

あるいは『僕だけがいない街』にも似ている。前者は明白にエヴァ・チルドレン、かつ村上春樹チルドレンなので似ているのは当然として、映画全体のプロットが後者に似ているというのはなかなかに不思議だった。いや、似ているというのは違うのかもしれない。シン・エヴァはそれらをすべて呑み込んだのだ。旧エヴァから今日に至るまでの20年で生み出された新たな物語の語り方、ジャンルとして確立したNTR、そのすべてを利用して、エヴァという作品は20年前に成せなかったことをやり遂げたのだ。はっきり言って、画面は旧劇のほうが遥かに良い。演出のキレは比較にもならない。しかし、たしかに神殺しは成った。2021年にできる最善を尽くし、自らが生み出した怪物を殺し、娼婦を眠らせた。いまの私には、そう思えてなりません。

 

 

お酒なくなっちゃった……。